シャネルについて
ココ・シャネルはフランスの南西部オーヴェルニュ地方ソミュールの裕福ではない家の出身で、
まだ12歳にもならないうちに母親は他界、父親には捨てられたため、姉のジュリアと共に修道院で育ちました。
修道院でのココは、勝気で好戦的な性格の持ち主で、子供らしからぬ言動で姉にいつも迷惑をかけていたおてんば少女でした。幼い頃からお洒落に強い関心があり人から注目されたり、視線を浴びたりするのが大好きな一面も持ち合わせていました。
生まれながらにして強靭な精神の持ち主であったココ・シャネルは、孤児という境遇から将来への夢を諦めるようなことはなく、常に「いつか自分という人間を世の中に認めさせてみたい」という思いを抱き、好きなだけ着飾れる贅沢な生活を夢に見ていたのです。
ファッションへの情熱が人一倍強かったココ・シャネルは、誰よりも熱心に修道院でお裁縫の技術を身につけフランスのムーラン市にある洋品店でお針子として働き始めました。
その当時この店に通っていたのが「フランス陸軍の華」と呼ばれる貴族や良家の子息だけで構成された部隊の男性たちでした。
ココ・シャネルは、見事そのうちの一人で資産家の御曹司であるエティエンヌ・バルサンの心を射止めます。
このことが彼女のファッション界でのキャリアの始まりとなったのです。
ココ・シャネルは猟騎兵第10連隊の溜まり場であった「ラ・ロレンド」というキャバレーに一緒に出入りするようになり、そこでオーディションを受け、歌手としてデビューしますが、評判は芳しくなく、すぐにやめることとなります。恋人であったエティエンヌ・バルサンはそんな彼女を連れ故郷の自分の屋敷に住まわせます。ここでの暮らしが、ココ・シャネルを本格的にファッションの道へと導き、ファッションデザイナーという仕事につかせることとなるのです。
その帽子がエティエンヌ邸に遊びに来ていた女優の目に留まり、あっという間にセレブの中でのブームに。
それをきっかけとし、ココ・シャネルはエティエンヌらの資金援助を受けて、パリに「シャネル・モード」という名前の小さな帽子店を開くのです。
1910年にオープンしたココ・シャネルの帽子店「シャネル・モード」は、当時女性達に大きな影響を与えたセレブの口コミで人気が広がり連日客が詰めかけるほどの大盛況となりました。この成功を基盤に、1914年ココ・シャネルはフランスの高級リゾート地に初のブティック「ガブリエル・シャネル」をオープンしました。
ココ・シャネルが当時の上流階級の女性たちに提案したのは「もっと自由に動ける服」。第一次大戦中の戦時下の女性に、ココ・シャネルが提案した機能的な洋服は、圧倒的な支持を受けたのです。
ブティックのオープンから2年後、その人気の後押しを受け、ココ・シャネルは「シャネル・オートクチュール・コレクション」を発表。
本格的にパリ、モード界にデビューを果たしました。
そこでもココ・シャネルが提案したのは、やはり動きやすい素材を使ったドレス。
それまでのモード界の常識を打ち破るようなスタイルを次々と提案し、世間に広くシャネルのスタイルが広がることとなりました。
1921年にはシャネルの代表作である香水
「シャネルNo.5」を発表。社交界の女性に
贈ったところ、一躍「シャネルNo.5」は
社交界のステイタスシンボルとなりました。
数々の成功を収めてきたシャネルですが、第二次世界大戦が勃発したことで、香水とアクセサリーの部門を残し店を閉め従業員にも暇を出しました。
その後はスイスのジュネーブで静かな生活を送っていましたが、戦後女性の洋服のデザインが再びタイトなものになりつつあるのを見て1954年に復帰を決意。
パリでは「前時代の亡霊のコレクション」と酷評されましたが、女性の社会進出が盛んになっていたアメリカでは青いジャージー素材のスーツが大ブレイク。
有名ファッション雑誌の「ヴォーグ」や「ハーパースバザー」が大絶賛したことで、パリのモード界でも再び再評価されるようになりシャネル・ブランドは大復活を遂げました。
その後、アメリカでは「20世紀の最も偉大なクリエーター」としてモードオスカー賞を受賞。 87歳で香水「シャネルNo.19」を発表しました。 晩年まで新しい作品を手掛けていたココ・シャネルは88歳の時に常宿にしていた パリのホテル・リッツにて急逝しました。 |
ココ・シャネルの没後、
1975年にはスキンケア用品や化粧品などを発売、
1983年にはプレタ・ポルテ界の寵児、
カール・ラガーフェルドがデザイナーとして就任。
ココ・シャネルが大切にしてきたモードに対する価値観を
大切にしつつ、時代の空気を積極的に取り込んだ
新生シャネルを提案しています。